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『あの日』を前に、是非ご一読下さい。

もうすぐ東日本大震災から4年が経とうとしています。

この手記は、2011年4月初旬に石巻で被災した次兄のもとへ行った時の記録です。
ウェブサイトの手入れをするうちに、リンク切れを起こして閲覧できなくなっていたので再び皆々様の
目に触れるよう、ニュースではありませんが改めて掲載させて下さい。
当の兄も、見たものをきちんと伝えた方がいい、と当時も申しました。
 
 
*****
 
被災していない私が、このような手記を書くことに一抹の不安があります。
正しく伝えられるだろうか、誤解を招くことはないだろうか…。

あまり上手にまとめられた気がしませんが、見てきたありのままをとりとめもなく記そうと思います。

---

次兄が石巻に住んでいます。
誰にとっても忘れられない日になった3.11、私は甥を1人津波に奪われました。
兄は時計の文字盤を作る仕事をしています。
兄は工場の2階で命拾いしました。
窓の外に真っ黒いそそり立った波が見えた時には、「もうダメだ」と思ったと言います。
亡くなった甥は、兄と一緒に工場の2階にいました。
揺れが収まって携帯電話を取りに自転車で数分の自宅へ向かい、途中で津波にのまれてしまいました。
幸いなことに、遺体は割と早く見つけることができました。
死因は「ごく短時間での溺死」だったそうです。


甥の死亡を宮城県警のサイトで見つけたのが、あの日から8日目のこと。
その時はまだ兄の安否はわかっていませんでした。
それもそのはず、工場で助かってそのままそこに留まり、避難所に身を寄せていなかったのですから。
甥が助からず、希望を完全に捨てていた矢先、次姉のもとに1本の電話が。
仮設の電話から兄が、諳(そら)んじていた姉の自宅の電話番号に無事を伝えてきたのです。
私は直接聞いていませんし、連絡を取る手段もなく半信半疑…でも、生きていた!
あの日から9日目のことでした。

翌日、兄から再度連絡が。
9年前に亡くなった義姉の親戚が岩手から訪ねてくれ、携帯電話を置いていってくれたといいます。
私もやっと直接話ができました。
すぐにも飛んで行きたかったけど物資輸送が優先だし、国道4号をひたすら北上では…
現地はガソリンが全くないだろうから、行くなら持参してあちらに迷惑をかけないようにしないと…。
兄も、来るな来るなの一点張り。
駆けつけたい気持ちを抑えて、物流が落ち着くのを待つことにしました。
後で聞けば、携帯電話を駆使して何をしていたか…銀行に電話しまくって、
従業員の方の給与手続をしていたそうで。
兄らしいというか、何というか。

Google が開設した "Person Finder" に、私は兄の捜索を書き込んでいました。
それを見た兄の会社の取引先(盛岡)の担当者が、私のところへ連絡をくれました。
何でもあの日の翌々日に打ち合わせを予定していたそうで、ご自分たちも大変なのに気にかけて下さり。
本当にありがたいことです。

4月2日0時 蕨に住む長兄のところへ兄の次男とで集まり、ワンボックスに携行缶を積んで東北道で
北を目指しました。
さすがに空いていて、4時半過ぎには、石巻に着きました。
三陸道 石巻港インターで降りると、そこにはパトカーが。
しかしパトカーは泥まみれで。
きっと避難する車でごったがえす中、最後迄その整理に当たっていて…津波に呑まれてしまっていないと
いいのですが。

夜明け前なので、先に兄の自宅へ向かいます…が、そこで育った兄の次男が道がわからないほどに、
辺りは変わり果てていました。
暗がりの中、我々一行はしばらく言葉が出ず呆然と立ち尽くしていました。
民家の中に車が数台竿立ち、そんなのは当たり前。
激しい流れに足廻りがねじ切れてしまっている車もいます。
津波が運んだものが、津波の辿ったルートを暗に語っていました。
くさびをギュウギュウ押し込んだように、車が我れ先にと集まっている行き止まり。
あったはずのご近所の家がなく、ベタ基礎の新しい家は基礎ごとどこかから
流されてきていました。
兄の家とそのまわりは残っています…
でも、何となく互いが寄りかかってつっかえ合ってかろうじて建っている、という感じです。
どこから流れて来たのか、スナックの屋根と建物の一部が兄の家に刺さっていました。
津波が残して行った海の砂は、ヘドロ化して足をすくわれそうです。
屋根の上には、流されてきた木が。
まるで屋根
の上に生えているかのようです。

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兄は電気がない中、日が落ちたら寝て陽が出たら起き出す生活をしていましたから、
ほどなくして兄のいる工場で再会となりました。
工場の2階は奇跡的に無傷。
私の知っているまさにそのままです。 
窓を開け、会議用の椅子に腰掛けて遠くの風景を見ると、そこには見慣れた風景が広がって
何かありました?というくらい。
ところが立ち上がると…何もかも がメチャメチャなんです。
7km先のJR貨物のヤードからは、20フィートコンテナがゴロゴロ流れ着いていました。

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兄のいる地域は、救援物資が比較的届きやすい場所だったようです。
食料も、避難所にいなくても分けて頂けるほどで、兄からは「食べ物は足りているから」と行く前から
言われていました。
が、長兄は…栄養のあるものを食べていないだろうからと、コンビーフを密かに持参していました。
コンビーフといえば、私より上の世代の昔のおご馳走です。
一同、思わず顔を見合わせて吹き出してしまいました。
ほんの一瞬、コンビーフで場が和みました。

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 「陽が差さないで、どんよりじめじめしていたほうがいい。寒いくらいでちょうどいい。」


兄が言いました。
実感だと思います。
兄の工場のすぐ近所には、日本製紙の石巻工場があります。
津波の後に火災も発生、壊滅的な被害を受けました。
報道で、雑誌の紙が生産できず月刊誌などの発行部数に影響が出るだろう、と言われる
あの工場です。
製紙工場のロール紙がゴロゴロ流され、溶け出した紙が汚泥に混ざり、海沿いの食品加工工場の魚系の臭い、
火事の後の臭いに船の重油やその他
油の混ざり合った臭い、そして磯のにおい。
ちなみに兄の工場には小さいながらもメッキ加工プラントがありまし たが、

 「(電解槽の中身は)みんな流しちゃったよ…」。

桜前線も北上し、被災地も穏やかな季節を迎えています…
ヘドロ化した津波の残存物が、臭いを増す気がします。
気温が上がれば、蒸発して乾燥するでしょう。
粉塵による呼吸器への影響も心配です。

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改めて、兄の自宅へ行きました。
明るい中で見るそこは、改めてめちゃくちゃでした。
2階の襖についた水の跡は、2階の中頃まで津波が襲ったことを物語って いました。
押入のに下段にしまっていた兄の服はすべて水に浸かり、今は押入上段に収まっていた長男の服を着ている
そうです。
ソファーや家具など家の中に あったものは、ことごとく家の外に。
仏壇にももれなく水が入りましたが、義姉の位牌だけは奇跡的に見つけることができました。

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現地では、本当にたくさんの自衛隊員が活動していました。
石巻は人口も多く、津波で大きな被害が出ているので、捜索活動・がれき撤去に従事する隊員をそこここで
目にしました。
自衛隊員の過労死が報じられましたが、どの人もそれはそれは疲れの色が濃く本当に支援している側なのか
心配になる程でした。
きっと使命感だけをエネルギーに、不眠不休で任務に当たっているんだと思います。
土地柄、ベース(在日米軍基地)関係のミニユーザーがちらほらいます。
今回、トモダチ作戦 "Operation Tomodachi" に参加した人から、彼の体験を聞く事ができました。
支援物資が日本の規格と合わないから、と食糧も足りていない避難所を目前に持ち帰らざるを得なかった
物もあったそうです。
しかもそれが福島近海から展開し た部隊が持ち帰るとなると、放射性物質の検査をして引っかかって
しまった物は廃棄しなくてはならないのですから。
こんな時に何やってんだ?!
一部報道でも やっていましたが、行く先を決めずにヘリで発って、道路状況などの悪そうな避難所へ
ゲリラ的に物資を届けるようなこともしてくれたそうです。
通常なら事前に「何をどれだけいつ届ける」と連絡があるのに、突然外にヘリの音。
米軍の物資の中には、子どものおもちゃなどもあるそうです。
例によって規格に合う合わないでモメると、「ヘリの調子が悪くて緊急着陸した、負担を減らすのに
積んでいた物資を全部降ろした。」そんな言い訳?もしたそうです。
ある友人は日本人ですが、ベース(彼は陸軍)の中で輸送に携わる仕事をしていて、そこからも話を
聞いたのですが、トモダチ作戦の物資の流れそれは手厚い、そして行き届いたものでした。
支援申し出にしても、物資にしても日本の側が結構、と言ったケースも数多いそうで、まさにこんな時に
何やってんだ!?です。

ある人から、子供服の古着を託されていました。
甥達の母校が避難所になっており、そこへ直接持ち込むことにしました。
そこは1階に津波の被害を受けながらも、避難所として機能している小学校です。
受付で「直接渡してほしい」と小さい子供の居る2階に通され、そこで見たのは…乳飲み子を抱え、
疲れ果てたお母さん達の姿でした。

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兄を伴って(一時的に志木に住む次男のところに身を寄せる為)石巻を離れる際に、義姉の墓へも
立ち寄りました。
墓石やら墓誌やらがずっこけていましたから、戻せるものは戻して道が混む前に石巻を後にしました。
午前10時前には、三陸道を仙台に向かって走っていました。
来る時には暗くて見えなかった車窓からの景色に、改めて一同唖然としました。
仙台市内では、海沿いを走る三陸道→仙台東部道路のラインまで津波が襲ったと聞きました。

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4月11日に電気が通るので、兄は石巻に戻ると言っていました。
ところが4月7日の大きな余震の影響で、インフラ整備が一からやり直しになってしまい、復旧した水道も× 
電気もしばらく× 現地から電話でそう連絡があったそうです。 

亡くなった甥は、車を買い替える手続きを進めていました。
仙台の販売店で契約したので、納車前の車が流されることはなかったのですが、肝心の主が、帰らぬ人に
なりました。
兄はせっかくなので(兄の車は流され、いい加減離れた所で見つかったそうです)その車に乗ることに
したそうです。
これ迄甥が乗っていた車 を下取りに出す契約にしていたそうですが、その車は工場の裏手で竿立ちに
なっています。

「下取りしてくれるのかな?」と兄。

15日(金)石巻へ戻った兄。
18日現在電気も水道もまだ。
工場の建物は残ったものの、行政の方針もあるので、自分だけどうこうすることもできないと、
今後のことはまだ白紙。
情報を得るために役所へ通う毎日だといいます。
何もかもがなくなってしまった被災地。
地域によって 温度差がおおきいと思われますが、なかなか復興といっても長い時間がかかるでしょう。
離れた所に暮らす私達にできることーーそれは忘れないことだと思います。
興味本位ではなく、世の中に流されてではなく、日本人としてこのかつてない国難にどう向き合っていくかを
考えるべきだと強く思います。

ご一緒しませんか?

マン島で徐々にレギュラー扱いを受けつつあります。
 
歓迎されるのはとてもありがたいことです。
6,000マイルもの距離を、毎年毎年 車を運び人は出掛け。
まずそこにあちらの人は興味を持ち、共感し、協力してくれて。
励みになるし、またがんばろうって気にもなる。
でもいつまでも特別扱いじゃなくて、あそこに居続けたい。
お客さん(エントラント)ですけど、もう1歩踏み込みたい。
たぶん我々が飄々(ひょうひょう)と続けていれば、島の人たちも慣れてしまってマヒするに違いない…イヒヒ。
 
だんだんマヒしつつある気もするよな…
 
いつも温かく迎えてくれる、すべての関係者たち。
そうか…!
我々の仲間が、マーシャルとして関われたら!
マーシャルとは、コースの係員全般を指します。
 
 
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パパやママと一緒に、オフィシャルを手伝う子どもたちも見かけます。
別に珍しい光景ではありません。
これはどこだったろう…我々#91クルーが夜のステージに参戦できたのは Day2 のみ。
Castletown の2本を終えて、山へ登って2ステージ…のどちらかでしょう。
間違いないのは夜もだいぶ遅い、ということ。
 
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ステージによってですが、直前を走る車両のゼッケンが書かれた小さな紙を渡されることがあります。
なくすといや〜な顔をされるんですが…それはさておき。
ベストを着た彼は、コースクリアになるのを待つ何十台もたまった車たちに、その紙を渡して歩いています。
TC へ行ったら、お母さんらしき人がタイムキーパーをしていました。
 
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僭越ですが我が家でも、娘は一応タイムキーパーです。
2012年12月、Mid Boso Rally TC0 にて。
 
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もちろんスペクテイターにも、親子連れはいっぱい。
これは2012年Rally Isle of Man Day3 ".179" にて。
家内の撮った写真です。
オフィシャルグッズのニット帽(大きいよね)を得意げに目深にかぶり、ラリールートをプログラムで確認する少年。
 
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Manx Tartan に織り込まれる紫は、ヒースの色。
ヒースが咲く荒れ野で競技車を待つ娘と、今年もかけつけてくれた仲間の坊ちゃん。
エキゾースト音が遠くからこだましてきて、スペクテイターは競技車が来ることを知るそうです。
 
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これはレッキ(試走)中の1コマ。
殆ど見かけませんでしたが、ステージの中に居てレッキ車の通過をチェックしているマーシャルです。
試走は2度までと規則で決まっていますので。
日がな一日、ここで待機してくれていたんでしょう。
車の中で読書してました。
こういう人たちに支えられてラリーは成り立っています。
 
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我々のクラブラリーですら、慢性的な人員不足が悩みの種です。
年に1度のイベントともなれば、円滑な運営の為に絶対的に頭数が必要。
帰りのフェリーには、毎年ラリー中の『どっか』で見た顔が。
メインランドから来ている若者マーシャルもたくさんいます。
 
ラリーにかかわりたいけど、走るのはさすがに…という方。
これは見逃せない!…って思いませんか?
2日はスペクテイター、1日だけでもマーシャル。
こんなかかわり方もいいですね。
 
『言葉の壁』が気になるところですが、それも込みで熱意があれば、『壁』までのものではなくなると思います。
クラブ主催の年数回のロードラリーでラリーの流れを知れば、またとない経験があなたのものに。
我々のクラブラリーは、練習の為にやっています。
競技クルーはもちろんのこと、コースを作りラリー(時間)を組み立てるスキル、草ラリーとはいえ開催までの
書類等諸手続きのこと、すべてが練習です。
その先に本場でラリーを楽しむことを見据えて、やってます。
それが証拠に、#785 クルー(2014RIOM Car95)先代も今年のコ・ドライバーにしても家内にしても、
ロードラリーで培って現地でステージラリーデビュー、ですから。
いかにロードラリーが大切かが、お解りいただけましょう。
 
同じ旅でも、より1歩踏み込んだ旅になること間違いなし!
ご一緒しませんか?

2014 Rally Isle of Man #91 『あの瞬間』に学ぶ

2014年9月11日 木曜日 現地時間21時14分30秒。
場所は英国属領マン島 首都ダグラスのプロムナード。
日中には馬車軌道も走る、海岸線の目抜き通り。
そこを閉鎖して行われる2台並走の特設、いわゆるここは
 
「スーパースペシャルステージ」
 
ゼッケン 91 こと私、店主の Cooper 'S' は、左レーンからのスタート。
スタートから約150mで左90(90°のコーナー)→Aターン(鋭角コーナー)して
向きを変え、プロムナードをフェリーの船着き場へ疾走する…筈でした。
 
ところが。
 
初盤も初盤、Aターンでまさかのフェンスに激突。
これは、スペクテイターの方が提供して下さった映像を切り取ったものです。
 
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わずか100m足らずでブログで紹介したとおり、Leg1 リタイヤを余儀なくされました。
訳が解らず、そしてあまりにも唐突で。
 
気持ち的にはまだ始まってもいない、そんな感覚のうちに、1年かけて準備してきた今年のラリーは
終わった、そうも思いました。
 
幸い、島のミニスペシャリスト(またしてもお世話に…)の助けもあって1時間半で修復。
晩のうちに車検委員の再車検も済ませ、スーパーラリールールの適用を受けて
リスタートできることになりました。
 
細かくステージ毎に追ってご覧になった方にはお解りになりましょうが、その後もトラブルは相次ぎ…
何度も集中力を削がれるような局面にさすがに心も折れかけましたが、どうにかこうにか周りの助けあって
最終ステージ "Classic" まで走ることができました。
 
後に状況と証拠を分析すれば、初めて選んだ足廻りの部品が競技使用にはそぐわない品質だった、
という結論。
 
3年使ったので念の為交換していったのですが、それが仇になった形です。
何よりもう1台(幸いその車にこの部品はついていませんでしたが)ではなくてよかった、
心の底からそう思いました。
今年、もう1台のクルーは完全完走を目指して準備をしてきていましたから。
続けて見舞われたトラブルも、すべてこちらで受けて露払いをしたと思えば腹も立たないというものです。
 
それとこれが起きたのがここでよかった、ということ。
このステージはSS1。
短いサービスを挟んで残す3本は、山の上2本に続いて有名な3連ジャンプのあるハイスピードステージ。
うっかり先へ進んでいたら、どこのステージでもこんなことではすまなかったでしょう。
 
どこの商品、とかをここで示すことはしません。
もちろん、製造/販売元へのレポートの準備はしていますが。
 
ただ言えることは、我々はこれからもっともっと精査して、慎重に選ばねばならないということ。
長いラリーの経験を振り返っても起こり得なかったことが、いとも容易く起こってしまったのは事実です。
 
新車の生産終了から時間が経てば、部品の質が落ちてくるのは、ごく一般的な話。
私たちのラリーは、車両の開発が大きな目的の1つです。
私たちの基準に叶うものが見当たらなければ、ボディ同様 時に自分のところで作る必要も出てくるかも
しれません。
更に研究して、我々の基準を上げていくことが、安全につながります。
競技のフィールドで得たデータは、グレイスでお世話する全ての車に生のデータとして反映していきます。
これがあってこそ、グレイスの車は保っているんです。
 
ラリーの初っ端に出鼻をくじかれて、改めて兜の緒を締める…そんな決意をした私でした。
何事も選択なんです。
人生だって同じ。

はじめの一歩

「割とロープライスで安心して乗れるミニ、ありませんか?」
 
最近よく聞かれます。
思えば巷に Rover Mini がいっぱい走っていた90年代、もう20年経つのですから
『お手軽ミニ』はもう居ないといっていいでしょう。
 
私がミニに乗り出した頃…かれこれ37年前。
 Mk1 最終型から 12年しか経っていませんでした。
そう思うと、20年…Rover Mini はまだ新しい、という認識はどうも勘違いみたいです。
 
50年という長い長い製造期間の歴史は、コストダウンの歴史でもあります。
諸般事情から階段を下りるようにコストダウンを繰り返したモデルは、その代償に都度
ボディの強さを失いました。
年式が新しくなればなるほど、モディファイを楽しめば楽しむほどに後のコンディションは
厳しくなってしまいます。
 
---
 
ロープライスで乗れる…
あ!
1995y Cooper 1.3i がある!
1オーナーでずっと診させて頂いてた車両。
数年前に諸事情あって降りられて、以降私たちが補修して使ってました。
時には代車として…使った方、いますよね。
よく見ればまだ5万km弱。
ボディもリペイントすればまだOKです。
 
思い立ったが吉日。
今日、まずサスペンション廻りをチェック…以外と軽作業で済みそうな予感。
早速、他の仕事の合間に手をつけました。
ラバーコーン・ショック・ブッシュ・ハブベアリング・ブレーキディスク・パッド。
他、細かい消耗品あれこれ。
 
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さっさかやって、すぐ終わりました。
あとはボディのチェックを念入りにして、リペイント(オールペンです)。
タイヤ&ホイールをキレイに、加えてインテリアも少々。
これは『割とロープライスで安心して乗れるミニ』になる!
 
はじめの一歩のミニになる。
 
重作業に明け暮れていて、こんな大事なことをうっかり忘れるところでした。
もう1台、頃合いのがあるのでそちらは若いの(長男です)に任せます。
あれこれ改造されていない良い個体があれば、高年式でもやりましょう!
 
この2台、今なら色もお好みで。
まだ間に合います。
 
 
はじめの一歩、始めましょう。
 
欲を言えば…80年代〜94年までがいいですね。

Rally Isle of Man 今年も動き出しました

マン島ラリーの公式ウェブサイトに、ラリーガイドが公表されました。
 
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4ページ目 "WELCOME" と銘打ったページ。
最後の一文は、海を渡るエントラントに向けたメッセージでした。
 
  We look forward to welcoming crews from Japan, Europe Middle East, 
  America nad British Isles to the Manx 2014…come and be part of it!
 
今年も2台で参戦します。
競技車は、7月7日に大黒埠頭の保税倉庫へ預けます。
 
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今年も目の前で見てみたい、という方と一緒に渡航します。
まだ間に合います。ご興味ある方、是非お尋ね下さい。
クルー及びサービスのラフスケジュールは、こちらでご覧頂けます
 
あと78日です。
海外ラリーに参戦の折には、ご一緒して本物を目の前で見ていただけるように
ツアーのようなものを組んでいます。
これまではお問い合わせに応じる形でのみのご案内でしたが、行く行かないはさておき
ご要望が割と多いので、今年はラフスケジュールをここでご案内します。
 
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日程は以下の通りです、
 
9月 4日(木) 店主 出国
9月 6日(土) レッキ(Recce = 試走)1日目
9月 7日(日) レッキ2日目
9月 8日(月) サービス 出国
9月10日(水) ドキュメンテーション
9月11日(木) 車検・Rally Isle of Man Reg1
9月12日(金) Leg2
9月13日(土) Leg3・ラリーパーティー
9月14日(日) フェリーでメインランドへ(or15日)
9月15日(月) 以降、順次帰国
9月17日(水) 店主帰国 ←最長スケジュール
 
店主は8日出国、18日帰国 これが最長スケジュールです。
観戦の方は、各々スケジュールの許す範囲でラリー本番を軸に出国/帰国日はまちまちです。
間際の出国は10日の方がおいでです。
 
ご興味ある方は、お気軽にお尋ね下さい。
本物を見たら、もっと自分の車が好きになること請け合いです。
 
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私事ではありますが、今年よりラリーのコ・ドライバーを変更することになりました。
大きな決断ではありましたが、なぜこのような決断に至ったか、思うところを記してみます。
 
 
キャリアを積んで、年を重ねて、経験を踏まえて変わっていくんです。
…こんな風に書くとカッコよく聞こえるかもしれませんが、端的に言うとズバリ『老い』なんです。
 
1989年に始めた海外ラリー。
1999 / 2000年に WRC に出てひと区切りつけるまでは、未知、飛躍、走り方含め全力で挑戦の連続。
とにかくがむしゃらに、無我夢中で Try & Error を繰り返し、やり散らかしたかと思い悩んだ
こともありました。
 
充電を経て体制を整え2009年、長く親しんだ相棒と再開します。
そこで感じたこと…善し悪しの問題ではなく、全く過去の感覚と違うということでした。
その感覚が何なのか?検証して行き着いた結論、それは時間がもたらしたもの『年齢』でした。
実にシンプルなことでした。
老いが迫ってきたのです。
これまでと同じようにはいかない自分を感じました。
折しもちょうど50歳、50歳での復活劇に刺激されて新しいクルーが誕生しました。
彼らともまだまだ共に歩みたい。
そう思った時、さぁどうしたら続けていけるのか?
まずは老いを自覚して、その時々のキャパシティに合わせて計画を立てる必要がありましょう。
   ・どう展開したいか     ・一番の目標は何か
   ・どう、生きたいか
モータースポーツを長く続けていくには、自らがこの部分をハッキリ意識する必要があります。
ラリーはレースとは大きく異なり同乗している人間が居ます。
殊ステージラリーは命を預け合う訳ですから、競技以前の心得として互いの命を守ることが第一です。
二者にコミュニケーションが欠かせないことはむろんです。
 
加齢に由る何というか『違和感』を抱えたながらも、キャリアを活かして試行錯誤を重ねれば、
若い頃と同じスタンスで続けることもできるかもしれません。
互いにハツラツとした壮年期を知っているだけに、どうしてもそこへ照準を合わせたく
なるのは必定。
でも老いが水を差し無理しがちとなり、すんなりと思ったようになる訳もなく。
リスクは当然上がります。
そして何より、目的や目指すものがそのスタンスに沿っているかは、よく考えるべきでしょう。
私はプロのドライバーではありません。
今の私は車両テストをするメカニックとしてだけでなく、いろいろな人に楽しみ方や夢を
提示するという立場にあります。
こうした観点からしても、無茶をするスタイルは好ましくありません。
 
私はミニと同い年ですから、あと数年もすれば60歳を迎えます。
やりまくってメタメタになる前に、これまでのキャリアを棒に振らない為にも己を知って
大きく切り替える、今がその時と思い至りました。
今、それが思い切れれば、もっともっと細く長く続けられるでしょう。
世界的に見ても息の長いクルーの中には、パートナーをコ・ドライバーに選んでいる人は
たくさんいます。
今になれば、その組み合わせの理由がよくわかります。
 
自分にとって妻は、生活だけでなく仕事も共にしています。
ロードラリーでクルーを組んで久しく、モータースポーツへの理解も深い人間です。
何といっても、日常に於いて私の老いを具に理解してくれている相手です。
ですから彼女と組むことで、老いにまつわるストレスは極端に減るでしょう。
技術的に不足する部分は多々あるでしょうが、それは先刻承知。
互いが互いを上手くコントロールできると確信しています。
老いを恐れずに、上手に続けていくに最も単純明快な方法です。
もしかしたら、競技的な色は薄らいでいくかもしれません。
でもそれも変化の一。
自らも変化しているのですから、目指す方向が変わっていくこともあるでしょう。
きっと内容も深くなり、発展していくであろうと期待を抱いています。
続けるということは非常にエネルギの要ることで、これまでにも想定内/外 様々なことが
起こり、都度選択を迫られ決断する、こんな経験を重ねてきました。
いろんなことがありましたが、いわゆる円熟期へ向かおうというこれから、大切なのは
自分の老いとのバランスを取っていくこと、これが長く続ける秘訣になる気がしています。
自分が一番判っていることですが、故に認めて受け入れることが難しいこともあるのが『老い』。
今の私は老いるということに直面し、きちんと向き合って考えるべき時が来ています。
虚勢を張らずに自然体で。
一番難しい、でも一番簡単な選択をしようと決めました。
 
もうこの仕事に携わって36年が経ちました。
人生の7割近く…時間が随分経っているんです。
いつまでも同じではいけないでしょう、年を重ねて成長したと思いたいところです。
『スローライフ』なんて流行り言葉があります。
余分なものを取り去ってシンプルにいく、ということでしょうか。
人からみればせわしくて、とてもスローではないんでしょうが、私の中では大きくそちらへ
舵を切る選択をしました。
見守って頂けたら幸いです。
 
最後に、これまで私のメチャクチャにつきあってくれた溝井くんに、この場を借りて感謝申し上げます。
彼のこれからに、これまで2人で経験してきたラリーの何かが役に立てば、これに勝る喜びはありません。